スートラとタントラ。
本を読んでいて・・・ヨガには実践スタイルが二つあると知った。
それをバランスよく行えるといいな。と、思った。
以下、引用
ヨーガは大別して、二つの実践スタイルがあります。
一つは顕教と言われるスタイルで、もう一つは密教と言われるスタイル。
前者はインドでスートラと呼ばれ、後者はタントラと呼ばれます。
スートラとタントラは、縦糸と横糸の関係にあり、本来は両方がバランスよく織り込まれてはじめて、美しい一枚の布に織り上げれるのですが、多くの場合、その比重に偏りのある形で実践されます。
スートラは、地道な実習によって行を進め、その目的や方法論などを理解しながら少しずつ成果を積み上げていくというスタイルで、本書のように、特定の師に付かずに行う際に適しています。一方タントラは、師の強引なまでの指導力によってテクニカルな実習を進め、呪術的な儀式などを経て、一足飛びに行を進めていくスタイルです。
前者はトレーニング、実践というニュアンスですが、後者は宗教、修行というイメージが強く・・・
綿本彰著、瞑想ヨーガ入門(実業之日本社)より抜粋
去年は瞑想を再開できた。
時間が短くてもいいから、瞑想を習慣にしてみては?という先生の提案。
それは、私の中にあった瞑想は「こうあらねば!」をどんどん壊し、とても柔軟な取り組みに変えてくれた。
具体的には、瞑想中に子供が話しかけてきたら、一度目を開けてお話しする。そして、終わったらまた目を閉じる。
授乳が必要になれば、授乳しながら座る。
30分座ろう!って思っても、途中で切り替える必要があれば、「今はここまで」って辞める。
2〜3日続けられない日があっても自分を責めない。
今日、子供が膝の上に座ったまま、瞑想していて、暖かさを感じながら座っていて、
「ああ。豊かだなぁ」と思った。
以前なら、瞑想中に膝の上に乗ってこられたり、子供が泣いていたり、昼寝から目が覚めてしまったりすると、「ああ。今日もダメか。」とガックリ。瞑想を続けられない、瞑想に集中できない自分を責めていた。
でも、今は、どんなことがおきても、そのおきている事を感じる。
ジャッジしない。良いとか悪いとかジャッジしていたら、そのことにも気がついていく。
そうやって座り続けて・・・。
時には、瞑想中に子供に対して声を荒げ(瞑想中なのに〜っっ)
時には、瞑想中に朝ご飯の献立を考えたり(あー。先のことばっかり考えちゃって〜。と気が付く)
時には、コックリ、コックリ頭が揺れ(うん。疲れ取れてなかったな。と気が付く)
今までやっていた瞑想が「こうするぞ!」というdoingなもの
ここ最近の瞑想は「そうか〜そうか〜。と今を観察する」beingなもの
どっちが良いとか、悪いとかではなく・・・。
今はこういうやり方が自分の暮らしにあってるな〜って。
そして、まとまって集中した時間が取れそうな時は、元々やってたタントラな瞑想も続けよう。
そう思った。
この思った事を忘れたくないな。と思って・・・ブログを書いた。
多分、誰かのため・・・ってより、自分のために。
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